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History

 自然は僕にとって小さな頃から当たり前にある場所だった。それは、会社員時代も、プロハイカーとして活動するようになった今も変わらない。

アパラチアントレイル2000マイル地点の道路

​2005~

 父が亡くなり、当時高校生だった妹と母を支えるために僕は東京から山形に戻った。時は過ぎ、妹が嫁に行くタイミングで勤めていた会社が合併することになった。合併の伴い元の部署への異動と合併先から転勤の話が内々あった。転勤がない条件で就職した僕には、会社に留まる理由は無かった。こうして転職のタイミングで、アパラチアン・トレイルを歩く決断をする。当時、アメリカのロングトレイルをスルーハイクしたハイカーは片手で余る程しかいなかった。

 まだ、インターネットもISDN回線を使用していた時代で、当時はトレイルに関する情報が全くなかった。今では考えられないが、有給も消化できずに夜中まで仕事をし、帰宅して僅かな時間辞書を片手にトレイルの書籍を翻訳する日々だった。

膨大な仕事量に退職日を過ぎても数日会社に行って引継ぎを行い、ようやく10日後アメリカへ出発した。

                                 

 アパラチアン・トレイル上で、日本のトレイルの第一人者、作家でバックパッカーの加藤則芳さんと運命的な出会いをする。以降、アパラチアン・トレイルを踏破し帰国。トレイルで出会ったハイキングをする子供たちや指導者と交流する中で、休日、子供たちと過ごす人生もいいなと思い、土日休みの会社に再就職し、県の自然の家でボランティアを始めた。

 

 そして、加藤則芳さんの仲間の集まりに参加するようになり、年に数度、加藤さんからトレイルのお話を伺う事が楽しみになっていた。トレイルは僕にとって既に遠い日の思い出になっていた。もうトレイルを歩く事は無いだろうと思っていた。

​2011~

ジョンミューアトレイルサイン

 2010年、仲間内への一斉メールで、加藤さんからご病気の告白があった。

その翌年、東日本大震災の起きた年だったが、仲間内で話し合い、加藤さんが愛したフィールドであるヨセミテへ加藤さんを連れていくことになった。

 総勢、14名ほどので2泊3日のジョンミューア・トレイルへ。会社の関係で長く休みを取れなかった僕は、一緒に加藤さんを背負って歩いた仲間と長いフライトの中で話し合い、再びトレイルを歩く事を決断した。これからトレイルカルチャーが芽吹く、そんな時代だった。

 きっと知らない誰かがトレイルを歩くより、トレイルの同期である僕が歩いた方が悔しくないだろう、きっと僕ならそう思うと思った。

​2012~

みちのく潮風トレイル石巻

 会社を辞めて全く武器ももたずアウトドア業界に飛び込んだ。丸腰でジャングルにおりたつようなものだった。どうやって生きていこうかというアイディアも全く無かった。

 ただ、トレイルで生きていくには、アメリカ3大ロングトレイルを踏破し、トリプルクラウナー(アメリカ3大ロングトレイル踏破者に与えられる称号)を目指すしかない。僕はプロハイカーと名乗り、まずはトリプルクラウナーを目指すことにした。

 時を同じくして、僕の友人たちが「歩ける場所が日本に無ければトレイル文化は普及しないよ。山形にトレイルを作ろう」といって集まり、NPO法人山形ロングトレイルを設立してくれた。

 

 僕の生活は、プロハイカーという未知の職業と、当時一般に全く知名度の無かったトレイル作りが始まった。

 僕は毎年1つ1つ海外のトレイルを歩いた。そして、日本に戻ればトレイルを作る為奔走した。

 

 生活費を作りながら海外のトレイルを歩き、トレイルを作くる。先の見えない果てしないその道のりにどんどん疲弊していった。幾度となく心が折れそうになった。辞めよう。何度もそう思った。マイナーなジャンルのプロは資金面で非常に苦労することは聞いていたが予想以上だった。​ ただ、誰かが必要としてくれるなら続けよう。ただそれだけで12年たった今でもこうしてこの生活をなんとか続けている。

白鷹丘陵トレイル看板設置

Future~

 ジョンミューア・トレイルを歩いた時、1枚の写真を見て話した事があった。「MASA、僕はこの写真と全く同じ場所で写真を撮ったよ」 と言って古めかしい写真をアルバムから1枚出してきた。そこには、50年前の少年のような彼がいる以外、少しも変わらない同じ景 色が広がっていた。時を越えてトレイルで同じ時間、同じ景色を共有できる素晴らしさを知った瞬間だった。

「100年後も、同じ景色があり、感動できるように。」僕は、これからも必要とされるならトレイルを歩き、トレイルを作りたいと思う。

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